「憲法」を、打ち間違えに気付かず変換すると「絹布」になりました。うむ、明治22年の「絹布の法被」は事実だな
集団的自衛権とは何ぞや?
簡単に言ってしまえば、「自分以外の誰か」が襲われた場合、自分がその襲撃者をフルボッコする権利という事です。
とまあ、普通の事ですよ、集団的自衛権なんて。
個人が行使する分には当たり前のこの権利。それを「国家」というコミュニティが行使するとなると、はてさて?
いや、行使するのが普通でしょ。少なくとも同盟国同士であれば。
「お前がピンチの時は助けるぜ!」、そーいった互いの信頼があってこその同盟国ですからな。個人の人間関係でもそーでしょ?
「僕が誰かにイジメられそうな時、君は僕を命に変えても助けなければいけないよ。でも、君が誰かに殺されそうになっても、僕は絶対に君を助けないよ。だってそれが、僕の自分ルールだもん」。
こんなヤツ、鼻つまみ者ですよ。
先に私の見解を述べさせていただきますが、これは如何なものかと思いますです。
日本において集団的自衛権の行使がガタガタする原因は2つです。
1つは「憲法解釈」。
もう1つは「戦争の危険性」です。
で、この2つ、全く接点がありません。完全に別問題です。だから、別々に考える必要があります。
それができない脳みそが残念な方々、あるいは理解した上で何らかの目的がある方々、そーした人々があちらこちらでトンチンカンなことを喚いているから、ワケがわからなくなるのですな。
厳密には以下の4パターンだと思うのです。
と、
といった感じでしょうか。
私は、まあ③のタイプです。
つーか、憲法9条なんてクソ条項、さっさと削除しなさいよ。
日本は法治国家なワケでして、一切において法律が絶対正義として君臨しております。
でなければ、日本社会はめちゃくちゃになります。まあ、秩序ってヤツですな。
復讐殺人、例えばわが子を殺された両親の場合とか、ニンゲンとしては心情的に応援したいじゃないですか。それを社会制度化したのが近世日本の「仇討システム」。
そうそう、聞きかじり程度の知識しかないのですが、戦後の食糧難の時代、「法に反する」という理由で闇物資に一切手を出さず、一家揃って餓死した法律家がいたとかいないとか。
何が言いたいのかと言うと、どんなに理不尽なシロモノであっても、法律は絶対に守らなければイケナイという事です。
それを「解釈」次第によってはOKって・・・
以前、このブログで「ボードレールの悪の華はお笑い読本」って、どんな文章も読み手の頭の構造や精神状態がオカシイと、受け取り方・解釈次第がヘンな事になってしまうという冗談を書いたのですが、今回の憲法解釈、それどころの話じゃありません。
こーゆー事を政府が率先して行うのって怖いです。
詐欺師がパクられて「私の法律解釈では、あの行為は詐欺ではない」とホザくようなものですよ。チンケな詐欺師が取り調べで詭弁を弄するのは大して問題はありませんが、一国の政府がそれをやるのってマズイと思います。
でも、そうした非人間的なシステムが、結果的に多くの個人にとって人間としての平和や幸福をもたらす事を、私たちは「理性」によって理解し受け入れているのですな。人間のみが有する理性があってこその法治国家ですから、人間的と言えば人間的。
日本国憲法はですな、法律のみならず日本なる国家の一切の有り様を規定する理念なのです。
たとえその理念がですな、時代錯誤も甚だしい脳内お花畑のイカれた内容でも、心も知性も殺して遵守せにゃならんのです。
それを国家運営の意思決定を有した「政府」が、パクられた詐欺師のごとく「法の解釈によっては」というの、どー考えても異常です。
具体的にどのような問題が生じるかはよーわかりませんが、少なくとも「政府が率先して憲法を形骸化させた国」というのは、諸外国から見たらどのように受け止められるのでしょうね?
そんな国の国民って、法律や社会とかをどのように捉え、どのような行動・生活・考えに至るのでしょうね?少なくとも、理性的かつ知性的ではないでしょうな。日本の韓国大使館の前で、等身大のパククネ人形でも燃やしてデモやれば?
案の定、長くなりそうなので続く。