直六国防挺身隊

母は来ました今日も来た。嫁をイビリに今日も来た。

日本文化に自動車はイラナイ子

昨年末、テレビを観ていたら、戦前のブガッティ10数台がぞろぞろと、京都や神戸とか近畿地方を練り走る番組がやっておりました。
うむ。やっぱりブガッティはクラシックカーの王様だなあ。特に私の世代だと、カーグラTVのオープニング、カクカク動くタコメーターのあまりのカッコ良さに、その夜は欠かすことなく夢精したものです。

で、その「ブガッティぞろぞろ番組」を観て思った事はですね、「日本の風景、ブガッティに似合わね~~!」って事。
なんか、もう、違和感がすごいのですよ。
なんででしょうね?京都とか、似合いそうなものなのに。

実はですな、日本には自動車文化が存在しないからなのですよ。
もっと正確に述べると、自動車を文化として認める素地が、日本文化にはないのですな。

どーも、日本に限らずアジア文化圏だと、自動車やオートバイは文化になれないらしいみたいです。
韓国のF1とか最たる例ですな。あの惨状は韓国人が悪いのではなく、F1という欧州文化が韓国の文化とは相容れなかったからだと思います。
まあ落ち着いて考えたら、自動車が同じ所をグルグル走るだけですから、何が楽しいいのか意味不明ですな。

だーかーらー韓国のヒュンダイは、デザイナーだけイタリアから引っこ抜いて見た目だけカッコ良くして、中身は20年前の三菱のグダグダ直噴エンジンのままなのです。それでよく売れているから、ヒュンダイは正しいのですよね。
ところが、それが許せないという人もいらっしゃいます。私もその一人ですが。まあ、自動車メーカーとしての誠意がないと言いますか、インチキ臭いですもんね。
でもですよ、自動車を単なる「実用品」と認識している人にとっては、それでいいのですよ。実際、日本のような韓国アレルギーのない大多数の国家において、ヒュンダイの自動車は大人気ですものね。

程度の差こそあれ、日本の自動車メーカー、どこもヒュンダイと変わりませんよ。
確かに、開発力・技術力・品質・信頼性・性能とも、リトルリーグとメジャーリーグぐらい格差はありますが、本質的には一緒。すなわち、「どーすれば売れるのかしら?」が大前提。「売れる・売れない以前に、自分はこれが造りたい!」って意志が皆無なのよね。

何でないのかと言えば、日本は自動車というジャンルに文化的要素は全くないと決定した社会だからですよ。
だって、有田焼や輪島塗り、あれらを「文化」ではなく単なる「食器」としか社会全体が認めなかったら、とっくに消えてるでしょ。逆に、自動車という物に文化的要素を認識できる社会なら、自動車は文化となるワケですな。
この場合、文化というより「芸術的要素の強い伝統工芸品」という事なのでしょうけどね。

フェラーリなんてふざけた会社がこの世に存在できるのも、自動車を自国の文化と認知したイタリアなるアッパラパーな国の会社だからからなのです。一方、文化として認知されているお蔭で、合理性のためなら死ねる!ってお国柄であるにも関わらず、ドイツでポルシェが存在できるのです。つまり欧州文化圏において、自動車=日常の足ぐらいの女学生でも、フェラーリやポルシェはダ・ヴィンチの絵画やベートーベンの音楽と同格の位置付けなのです。
ソーユー感覚、日本人にはないでしょ。フェラーリーやポルシェに対し、値段が高い高級車という認識しかなく、持っている人には金持ちに対する妬みと嫉みしか感じない。まあ、持っている金持ちの大半も「わしゃ、金持ってんぞ~」とアピールするのが目的ですし。単純に造形としてスバラシイじゃないですか、フェラーリやポルシェ。それを純粋に鑑賞すればいいのに、お金の話にしかならない。持っていない人も、もっている人も下衆ですなあ。

だから日本の自動車は性能が良くて、信頼性・利便性が高くて、人畜無害にカッコ良いだけの、文化・芸術的素養に欠けると言いますか、知的水準が低いと言いますか、深み・奥行きがないと言いますか、物としてクダラン代物なワケですよ。
逆に言えば、現在、新車で生産されている日本の自動車に、物としての魅力を求めること自体、野暮ですな。

さてさて。
「芸術的要素の強い伝統工芸品」の極致というべき戦前のブガッティ。
そりゃ、京都とか似合いませんよ。だって京都は、「自動車は断じて文化ではない」と宣言している日本文化の聖地ですもん。スバラシイ場所に、スバラシイ物を置けば、素晴らしい風景になるって発想、「ヤクザの幽霊」みたいに典型的なバカの発想ですな。

文化という言葉は非常に扱いがデリケートでしてね。
ここまでお読みになった人はお気付きでしょうが、「日常生活における文化」という観点が欠落しています。
日本車が日用品に過ぎないのであれば、むしろそんな何気ない日用品にこそ、日本文化の本質が潜むのでは?と感じられる事でしょう。

文化とは突き詰めて考えると、地域的・民族的・歴史的差異によって生じる各社会の独自性と呼ぶべきモノ。
アメリカ人が靴を履いたままドカドカと家に入るのは、私ら日本人にとっては「うげ~不潔」って感じますし、アメリカ人にしてみれば「個人的技術の鍛錬に頼る箸とか意味不明」なのでしょう。文化に優劣や正誤はありません。

でですな、日本文化に合致した日本製自動車も存在するのですよ。
すなわちダイハツの軽トラですよ。お百姓さんの心の友です。
すなわちプロボックスですよ。営業マンの休憩所です。
すなわちハイエースですよ。職人さんの相棒です。
すなわちセンチュリーですよ。政治家運搬車です。
すなわち働く自動車ですよ。
すなわちトヨタですよ。
プリウス?おめーは死ね。

つまり、日本文化の各分野において、必要な道具としての役割を担う自動車です。
そーした自動車は没個性で、「芸術的要素の強い伝統工芸品」とは程遠い存在です。

わかり易く言えば、茶道って空間芸術があるじゃないですか。アレって、「茶器」が単なる実用道具にとどまらず、一期一会の具現化なる茶道という芸術作品の完成に必要な要素として存在します。茶道なる芸術表現の主役として、茶器は存在し得るし、だからこそ日本社会は茶器の文化的・芸術的価値を認め、小汚い大昔の茶碗1つが10000万円であっても、知性ある多くの日本人は納得できるのです。日本人でそれが理解できなきゃ、アンタ、幼稚園児をシャブ漬けにしてレイプして殺害するウジムシ以下の精神的底辺だぞ。

一方、日本人の主食であるお米づくりも立派な日本独自の文化です。で、そんなお米づくりで大活躍する軽トラ。つまり軽トラは、お米づくりなる日本文化を構成する、重要な要素です。では、茶道における茶器のように、軽トラは自己主張しますかいな?したらどーなる?お米づくりは景色として美しいですが、芸術ではなく肉体労働行為ですから構成要素が自己主張すると、日本文化的に美しくありません。だから、あの事務用品のようなデザインの軽トラが正しいのです。

よく麻生さんが、マンガやアニメは日本文化って言うでしょ、で、それに対し「あんな物、文化じゃない!」っていきり立つバカ多いでしょ。あーのね、今の日本のマンガやアニメ、江戸時代の浮世絵や草双紙の現代版よ。今の萌え~な美少女イラストも、歌麿のうりざね顔の美人画も、理想に基づくデフォルメ創作という本質部分では一緒。たぶん江戸時代の人も、歌麿の当時三美人を見ながら「おひさタン、ハアハア、萌え~」と絶叫していた事でしょう。
そもそも浮世絵も草双紙も、大量生産の商業主義の権化ですから、今のアノ手の商売と変わらんでしょ。

伝統文化だから浮世絵は偉くて、人生負け組の引きこもりのニートが愛好家に多いからアニメやマンガは劣っているといった判断基準で生きている人、愚かを通り越して不憫です。まあ、今の日本アニメも江戸時代の浮世絵も、所詮は低俗な代物ですよ。

随分と脱線しましたが、表層的には欧米化した今の日本でも、日本文化なる物は図太く根深く生きています。アニメやマンガはその一例。つーか、日本文化は今なお社会全体を支配しておりますです。その呪縛から、日本人は逃れることはできません。政治も行政も司法も外交も経済も学術も、全部、日本文化なる呪縛から逃れられません。だからグローバル化の今、歪が生じるのです。

当然、日本文化の支配を受けている人々が造るのですから、日本車に芸術的要素の強い伝統工芸品としての要素はアリマセン。別にブガッティやフェラーリみたいなモノに限らず、アウトビアンキのA112アバルトとかルノーサンクターボとか、安物でも造り手の自己表現的な濃い自動車は生まれないのです。断っておきますが、ランエボインプレッサ、お前らのようなガンプラ臭・マーケットリサーチ臭がプンプンするのはダメだ。
だから日本の自動車好事家は今の日本車は興味ないのです。そもそも自動車好事家の絶対数が圧倒的に少ないですから、日本って。

まあ、それで良いのですよ。無理に外国に付き合う必要はないですし。
そもそも自動車文化なんか、野蛮で知性のかけらもない劣等種族の欧米白色人間の専売特許で、寛容と理解に基づく規律と調和を重んじる優等種族たる日本人にはそぐわないのです。
それがF1で勝てない理由なのでしょうな。なんですと?ではどーしてアイルトン・セナマクラーレン・ホンダは最強だったのか?メガネハゲが人外のミュータントだったからでしょ。あーゆー事例は、人類の歴史上、神様の気まぐれ的にぼそりと発生しますから。そんな特殊事例を一般論化するって、まあ、バカですな。

さて、センチュリーで寿司でも食ってきますかな。